Weekly Matsuoty 2002/09/02
自分の世界
 
 一流と呼ばれる人々は、それぞれ、揺らぎのない、明確な価値観・世界観を持っている。イチローや高橋尚子、中田英寿は言うまでもなく、プロバイオリニストの五島みどり、青色発光ダイオードを発明した中村修二もそうだ。

つまり、彼らは、「自分の世界」を確立している。自分を中心に置いて周囲を見ている。自分が中心にあるから、周りに振り回されることがない。

これは、行き過ぎると、周囲との接触を遮断し、内側に深く入り込めば「狂気」となり、一方、周囲を飲み込むような形で拡大すれば、「独裁」的な行動となる。

芸術や科学の発展においては、しばしば、強烈な「自分の世界」を持つ「狂気」の人々が大いに貢献してきた。逆に、「独裁」者は、周囲の人々の人生をメチャメチャにしてきた。

 ただ、狂気も独裁も、自己中心的な世界を持っていたことが問題ではない。外部との関わりが極端なアンバランス状態であるという点が問題である。

では、そんな極端に走らず、あることについて一流の技能や知識を持ちながらも、同時に周囲の尊敬を集めるような人々に共通する特徴は何か。それは、確立された「自分の世界」が、‘オープンシステム’であるということだと考える。

 ‘オープンシステム’

 文字通り、外部に開かれたシステムであり、クローズドなものではない。完結したシステムとして存在しながらも、他のシステム(つまり、他の人の世界)を拒否しない。また、他のシステムを包含してしまうのではなく、様々な目的のために、他のシステムと協働する。それは、複数のシステムが、それぞれの役割を分担しながら、大きな、ひとつのシステムとして機能しているということである。

すなわち、「自分の世界」を確立しつつも、それはさらに大きな世界(=社会)の一部であることを認識し、行動できることが、一流であるための条件ではないかと思う。

 さて、上述の話を通じて、私が何を言いたいかというと、自己中心的であること、我を通すことは決して悪いことではなく、むしろ、自分らしい生き方をする上では、必要なことだという点である。ただ、それは「適正なレベル」のものであるべきであろう。

 イギリスの経営思想家、チャールズ・ハンディ氏は、ある著作でこう書いている。

“現代社会では、個人も共同体も、自由と(外部への)積極的な関与が両立する点を見つけださなければならない。私はアイルランド人だが、ほかの人々なしでは生きていけない。しかし、私の人生が私自身から始まるのも事実だ。私は、それを「適正な自己中心性」、つまり自分自身の探究と名づけるが、逆説的なことに、これを最も見事に追求できるのは他人との関わりを通じてなのだ”
 
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