子供たちの遊びにつきあってつくづく感じるのが、子供は遊びの天才ということだ。ハタから見れば実に単純でくだらないことを「おもしろい!おもしろい!」と言いながら繰り返している。
でも、よく考えると、大人たちのやっていることも実に単純なことばかり。例えばスポーツ。ゴルフは穴に入れるだけのことだし、サッカーは、穴じゃなくてネットに入れるだけ、マラソンは、地面の上で手足をバタバタさせるだけ、水泳は、地面じゃなくて、水の中で手足をバタバタさせるだけのこと。アイススケートに至っては、アメンボのように氷の上をぐるぐる回るだけだ。
仕事だって同じ。それ自体クリエイティブな仕事はほとんどない。仕事の大半は、単純作業の繰り返しである。
しかし、何かのスポーツや仕事を「おもしろい」と感じている人にとって、自分のやっていることを単純とは思っていないはずだ。むしろ、どこまで追求しても終わりのない、奥の深いものだと感じているはずである。
実は、そのもの自体が奥が深いのではなく、「おもしろがれる実力」がある人は、自ら奥深い穴を掘り続けているから奥が深くなる。つまり、あらゆるところに、おもしろさを次々と見つけていくとのできる人だ。
おそらく、人は生まれながらにして「おもしろがれる実力」を備えている。無心に遊ぶことが許されるコドモは、自然とその実力が発揮できる。ところが、残念なことに、成長するにつれ、人はその能力を失ってしまう。いや、失ってしまうというより、忘れてしまうというべきか。
「おもしろがれる実力」を大人になっても発揮できている人は、幸せな人である。私はそんな人たちと一緒に仕事や遊びをしたいと思う。幸い、今はそんな仲間に囲まれている。感謝!
*「おもしろがれる実力」は、文化人類学者の西江雅之氏の言葉。「経験を盗め」(ほぼ日ブックス)の中の、糸井重里氏、白幡洋三郎氏との対談の中から拾いました。
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