過去半年、「構想学」を学ぶ大学のゼミに
参加してきた。学生10名、社会人10名ほど
の混合ゼミである。(月2回-3回、土曜日の
午後開催)
正確には、自主的に運営されているゼミで
あるため、学生は単位が取得できるわけで
はない。その点では、受講していた学生の
やる気はたいしたもんだと思う。
社会人も、基本的に全回出席しないと厳し
い叱責を受けるという、甘えが許されない
なかなかのスパルタゼミだ。(^o^)
さて、「構想学」とは、「思い」(夢)の
実現プロジェクトを企画するための体系的
知識・技法である。(簡単に言えば)
このゼミの中で、私は他の受講者とチーム
を組んで、「知識社会の衝撃」(ダニエル・
ベル著)を読み解くというミニプロジェク
トに取り組んだ。
同書は、1995年発刊の論文集であるが、収
められた論文の中には、80年代に書かれた
ものもある。しかし、社会の構造的変化
(パラダイムシフト)を的確に描写・予測
していたことが、10年以上経過した今読む
とよくわかる。
さて、ベルの描写した社会の構造的変化と
して最も知られているのは、
・前工業化社会
↓
・工業化社会
↓
・脱工業化社会(=情報化社会、知識社会)
の3つのパラダイムである。
前工業化社会から工業化社会への移行を引
き起こしたのは、蒸気機関の発明を契機と
する機械生産の進展、すなわち「産業革命」
であった。
さらに、工業化社会から脱工業化社会への
移行の引き金となったのは、コンピュータ
と電機通信(いわゆるコミュニケーション
ネットワーク)である。
そして今、私たちは脱工業化社会の枠組み
の中にいて、情報・通信技術の急激な展開
を目にしている。
ベルの議論で優れている点は、本質をズバ
リと的確な言葉で表現していることだ。
たとえば、前工業化社会で重要な資源は、
「天然資源」であったとベルは指摘する。
農業、林業、鉱業が当時の社会を牽引して
いたからである。
工業化社会における重要な資源は「資本」
であった。このため、工業生産のための企
業組織の立ち上げ、経営資源の調達の仕組
みが整備された。
しかし、脱工業化社会においては「知識」
が最も重要な資源である。あらゆる分野に
おいて専門分化が進んだため、もはや、経
験やカンにだけ頼ることは難しい。今は、
高度な科学的知識の応用が前提でなければ、
製品開発が難しく、また社会が回らない時
代である。
上記の議論は、同様のことが繰り返し指摘
されてきたおなじみの内容であり、今さ
ら強調するまでもないだろう。実は、私が
興味を引かれた指摘は別のところにあった。
それは「ゲームの設計」のあり方について
である。これは、「誰(何)を相手にして
人は行動するのか」という意味である。
ベルは、各パラダイムにおける「ゲームの
設計」を次のように規定している。
・前工業化社会
〜自然に対するゲーム
・工業化社会
〜加工された自然に対するゲーム
・脱工業化社会
〜人間相互のゲーム
これを読んで、私はハタとひざを叩いた。
確かに、私たちの今の社会は
「人間相互のゲーム」
なのだと。
たとえば、現代社会の特徴である、サービ
ス産業の進展とは、人相手のビジネスが増
えるということである。
そしてまた、インターネットなどの電機通
信網を活用して、情報や知識を人々と上手
に交換できる者が勝者となっているではな
いか。
だが、私が腑におちた理由は、こんな明る
い側面ではなく、むしろ脱工業化社会がも
たらす負の側面についてであった。
人間相互のゲームにおいて、人が幸せに生
きていくために大事なことは、おそらく次
の2点である。
・高度な科学的知識・スキル
・対人コミュニケーション能力
前工業化社会、工業化社会においては、実
は、それほど高度な科学的知識・スキルや
対人コミュニケーション能力が必要とされ
なかった。経験やカンだけでできる仕事も
たくさんあったし、人との会話が苦手であ
れば、自然を相手にする仕事をやるという
選択肢が豊富だった。
しかし、現代は、上記の2つの能力を基本
的な能力として一定以上習得していないと、
社会の中でうまく適応することが難しい。
そうした能力を必要としない仕事はどんど
ん減少しているからだ。
また、近年、ひきこもり、うつ病のような
対人コミュニケーションと密接に関連した
現象が増加しており社会問題化しているが、
ベルの指摘した脱工業化社会の「人間相互
のゲーム」に否が応でも参加しなければな
らなくなった以上、こうした問題が増加す
るのは正確に予測できたことではないだろ
うか。
危惧されるべきなのは、技術の進展が、仲
間内だけの閉じた会話を可能にしており、
社会的な適応が困難な、偏った対人コミュ
ニケーション能力をむしろ促進する結果に
なっている点である。
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