今回のポイントはこの1文に集約される。
「安心」のないところに「信頼」が必要とされるのであって、「安心」のあるところに「信頼」は不要である。
今でも、田舎、特に人里はなれた山村では、家に鍵をかけないのが普通だ。集落を形成するわずか数十人の人々は、濃密なつきあいを通じて、お互いの家族構成・資産状況、また、どこの家でどんなことが起こっているかといった情報を実に深く共有しあっている。
このような状況では、窃盗・殺人といった犯罪が起きたとしても、たちどころに犯人が分かってしまう。しかも、もしそんなことをしたら「村八分」という厳しい罰を受けることがわかっている。
だから、この集落に暮らしている人々は、様々な犯罪の発生を基本的には心配する必要がなく、「安心」して毎日を送っている。
では、この集団の構成員である人々はお互いに「信頼」しあっているのか、というと必ずしもそうではないだろう。お互いにメンが割れており、悪いことはすぐにばれてしまうし、罰を受けるのが必死だ、という暗黙の了解が犯罪の抑止力として働いているのであって、「信頼」しているかどうかは別問題である。
このような集落は、外部からの侵入者、つまり海のものとも山のものともわからないヨソ者が入ってこない限り、非常に安定した状況を生み出しており、不確実性の低い社会であると言える。
実は、このような不確実性の低い社会では、「信頼」は不要なのである。信頼する・しないに関わらず、強い交流関係を形成している濃密な社会では、先に述べたように、お互いを信頼していなくても安心して暮らせるからだ。
逆に、素性のわからないヨソ者が集まっている都会では「安心」した生活を送ることができない。マンションの隣の住人の顔さえ知らないという生活であり、日々、どんな犯罪に巻き込まれるわからないという不安を抱えている。
こんな不確実性の高い社会でこそ必要なのが「信頼」できる人を見つけること、つまり信頼関係を築くことである。「安心」が得られない状況では、「信頼」こそが、日々の生活を不安なく過ごすために重要なのである。
通常、我々は「信頼」を安心していられる関係の意味で使うことが多いが、厳密に考えると「信頼」と「安心」とは別物である。
そして、このことから人間社会について様々な洞察を得ることができる。
*今回のテーマは、「信頼の構造」(山岸俊男著、東京大学出版会)を参考にしました。
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